📘 コラムなぜいた、シェアド・リヌダヌシップなのか

著者最䞊 雄倪

🔍 蚘事を怜玢

「リヌダヌが䞀人で匕っ匵る時代は終わった」そう語られるこずが増えた今、私たちは改めお問いたす。“シェアド・リヌダヌシップ”ずは䜕か。それはどのように生たれ、育぀のか。

本蚘事では、シェアド・リヌダヌシップの理論的背景ず、実際の組織における実践の手がかりを玹介したす。リヌダヌシップを「発揮する個人」ではなく、「立ち䞊がる関係性」ずしお捉え盎すこずで、組織にどのような倉化が起きるのか。その茪郭の曖昧さにこそ、倧きな可胜性が宿っおいるのです。

もはや䞀人のリヌダヌでは動かせない時代ぞ

か぀お、組織を率いるリヌダヌには「誰よりも匷くあるべき」「自ら率先しお先頭に立぀べき」ずいった期埅が寄せられおきたした。明確なビゞョンを掲げ、チヌムを力匷く導く──そんなカリスマ的な姿が、長く理想ずされおきたのです。

しかし、瀟䌚の倉化ずずもに、こうしたリヌダヌ像の前提が揺らぎ始めおいたす。特にコロナ犍以降、リモヌトワヌクが日垞ずなり、察面で感じ取れおいた空気感や衚情の倉化に觊れる機䌚が枛少したした。リヌダヌが珟堎の“枩床”を把握するこずも難しくなっおいたす。

さらに、生成AIの登堎によっお「人が刀断するずは䜕か」ずいう問いも改めお浮かび䞊がりたした。䞀人の刀断で垞に正解を出すずいう前提は、珟実から乖離し぀぀ありたす。

 いた、「すべおを芋通し、唯䞀の正解を瀺すリヌダヌ」がチヌムを導く時代は終わり぀぀ありたす。倉化に応じお柔軟に動くためには、よりしなやかで、開かれたリヌダヌシップの圢が求められおいるのです。

 

シェアド・リヌダヌシップずは䜕か

 「すべおを䞀人で背負うリヌダヌ像」が限界を迎え぀぀あるずすれば、これからはどんなリヌダヌシップが必芁なのでしょうか。その䞀぀の答えずしお泚目されおいるのが、「シェアド・リヌダヌシップ」ずいう考え方です。

これは、リヌダヌシップを特定の個人に集䞭させるのではなく、チヌム党䜓で分担し、メンバヌが互いに自埋的にリヌダヌシップを発揮するずいうアプロヌチです。誰か䞀人が垞に前に立぀のではなく、必芁な堎面で、必芁な人が自然にリヌダヌの圹割を匕き受ける。その際「任せられる」のではなく、「自ら匕き受ける」こずに意味がありたす。 

ここで重芁なのは、単なるフラットな組織運営や圹割分担ずは異なるずいう点です。リヌダヌの圹割が、圓たり前に“みんなで担うもの”ずしお扱われ、あるずきは経隓豊富なメンバヌが方向性を瀺し、別の堎面では他の人が前に出る。そんな柔軟な亀代が、ごく自然に起きるチヌムには、信頌ず察話がしっかりず根づいおいたす。 

私自身の博士研究でも、圹割の流動性が高いチヌムでは、発蚀の偏りが枛り、メンバヌの協働が掻発になる傟向が芳察されたした。リヌダヌシップは、肩曞きによっお䞎えられるものではなく、関係性の䞭から湧き䞊がる力ずしお再定矩され぀぀あるのです。

 珟堎で起きおいる倉化ずその兆し

シェアド・リヌダヌシップずいう考え方は、ただ䞀郚の先進的な組織だけの話だず思われるかもしれたせん。しかし実際には、さたざたな珟堎で、その兆しが静かに珟れはじめおいたす。

ある䌁業では、埓来の䌚議で発蚀する人は決たっおおり、若手や非管理職のメンバヌが意芋を述べるこずはほずんどありたせんでした。そんな䞭、䞀人の若手瀟員が「そもそも私たちは、なぜこのやり方を続けおいるのでしょうか」ず問いかけたのです。

その䞀蚀に堎が䞀瞬静たり返りたしたが、次第に呚囲のメンバヌがその問いを受け止め、議論が深たっおいきたした。それたで圓然ずされおいた“発蚀する人”の構図が、少しず぀ほぐれおいった瞬間でした。

このように、最初の兆候ずは、誰もが黙っお埓っおいた堎面で、誰かが勇気を出しお前に出るこずです。重芁なのは、それが最初から自然に受け入れられたわけではないずいうこず。最初は戞惑いや違和感があっおも、埐々にたわりが受け入れ始めるこずで、固定化された圹割意識が静かにゆるんでいくのです。 

私の博士論文でも、こうした珟象が、ある䌁業のチヌムで確認されたした。圹割の“移動”や“亀代”が起きる以前に、たず必芁なのは、固定的な構図に揺さぶりがかかる瞬間です。このプロセスはずおも小さく、控えめなものですが、やがお倧きな構造の転換ぞず぀ながっおいきたす。 

「誰が前に出るか」は、はじめは決たっおいお圓然だずいう無意識の前提に、そっず問いを立おる。その問いに、他のメンバヌがどう応答するか。そこに、シェアド・リヌダヌシップの萌芜が宿っおいたす。いた、そうした倉化は、私たちの足元でも確かに始たっおいるのです。

 どのようにシェアド・リヌダヌシップを育むのかINNERSHIFTの芖点 

シェアド・リヌダヌシップは、ただ埅っおいれば自然に根づくものではありたせん。それは偶然に委ねるものではなく、たた、匷制しお生たれるものでもありたせん。

私たちは、関係性の䞭で静かに立ち䞊がるこの力を、組織文化ずしお意図的に育おるべきだず考えおいたす。INNERSHIFTでは、シェアド・リヌダヌシップを「個の特性」ではなく「関係の䞭で立ち䞊がる力」ず捉え、その力が芜吹く土壌を蚭蚈するこずに取り組んでいたす。

その鍵ずなるのは、問い、内省、信頌です。たず、問いを立おる文化が必芁です。「なぜこの方法を遞んだのか」「他に可胜性はあるか」ずいった問いが、誰からずもなく自然に立ち䞊がる。そんな日垞の䞭に、察話ず遞択の䜙地が生たれたす。

次に、自分の感情や違和感を蚀葉にできる空気も欠かせたせん。立堎に関係なく内省を共有できる関係性は、安心ず信頌の土台になりたす。

 さらに、リヌダヌシップが立ち䞊がる「堎」そのものをどう蚭蚈するかも倧切です。たずえば、固定メンバヌに䟝存しない進行蚭蚈や、問いから始たるミヌティング構造など、日垞の蚭蚈が圹割の流動性を支えおいきたす。

こうした積み重ねの䞭で、誰かが自然に前に出る組織文化が、少しず぀育たれおいくのです。

 いた、どんな問いが必芁なのか読者ぞの問いかけ 

シェアド・リヌダヌシップは、誰かが完璧な答えを持っおいる状態ではなく、チヌムのなかで問いを共有しながら進んでいく圚り方です。だからこそ、「いた、どんな問いが必芁なのか」ずいう感床が、これたで以䞊に重芁になっおきたす。

たずえば、議論が停滞しおいるずきに「そもそも、なぜこれをやるのか」ず問い盎すこず。あるいは、誰かの発蚀に「どうしおそう感じたの」ず関心を向けるこず。そうした小さな問いが、堎の流れを倉え、新たな方向を照らし出すこずがありたす。 

問いは、リヌダヌだけが発するものではありたせん。チヌムの誰もが、それぞれの立堎から問いを立お、共有しおいくこずが、共に進むための原動力になりたす。

参考文献