あるスタッフの言動に、周囲が困っている。
院長も、そのことには気づいています。
しかし、本人に話をしようとすると、ためらいが生じます。
注意すれば、関係が悪くなるかもしれない。相手が納得せず、職場の雰囲気がさらに悪化するかもしれない。もし退職につながれば、日々の診療を維持することさえ難しくなるかもしれません。
一方で、何も言わなければ、別のスタッフが負担を引き受け続けることになります。
これは、小さなクリニックの経営を考えるための想定場面です。特定の診療所で起きた出来事ではありません。
院長は、問題が見えていないわけではありません。何をすべきか、まったく分からないわけでもない。
それでも、動けない。
問題に気づいていることと、その問題に対応できることの間には、何があるのでしょうか。
1.対立を避けるのは、弱さなのか
スタッフの問題に対応できない院長を、決断力が足りないと評価するのは簡単です。
しかし、対立を避ける判断には、現実的な理由があります。
小規模な診療所では、一人のスタッフの退職が診療体制に大きく影響することがあります。採用活動には時間も費用もかかり、すぐに代わりの人が見つかるとは限りません。
また、問題だと感じる言動があっても、その背景や事実関係が十分に分かっていない場合があります。
一方の訴えだけを聞いて判断すれば、かえって不公平な対応になるかもしれません。感情的な対立が強まっているときには、すぐに介入するよりも、状況を整理する時間が必要なこともあるでしょう。
医療職間の対立を考える際にも、対立の存在と、それにどう対応するかは分けて考える必要があります。
例えば、意見の違いが生じたとき、その場で結論を出さず、事実を確かめることには意味があります。一方で、必要な対応を繰り返し見送れば、問題の影響が周囲に広がる可能性があります。
ここで重要なのは、対立を避ける行動を、それだけで弱さや不適切な判断と決めつけないことです。
何を確かめるために対応を待っているのか。それとも、判断そのものを先送りしているのか。
この二つは異なります。
例えば、特定のスタッフの言動によって仕事が滞り、その不足を別のスタッフが補い続けているとします。
院長が「今は波風を立てたくない」と判断するたびに、負担を引き受ける人の状況は変わらないままになります。
表面上は大きな対立が起きていなくても、組織のなかでは不公平感や疲弊が積み重なる可能性があります。
対立を避けることによって、何を守り、何を先送りしているのか。
院長に必要なのは、対立を恐れない性格になることではありません。対応を見送る理由と、その判断がもたらす影響を、分けて考えることではないでしょうか。
2.医師であり、経営者でもあるという負担
院長は、医師であると同時に、経営者でもあります。
患者の診療では、医学的な知識と経験に基づいて判断します。しかし、スタッフの問題には、診療とは異なる種類の判断が求められます。
何が起きているのかを確認する。関係する人々の話を聞く。就業上のルールや役割を確かめる。必要であれば、業務の分担や指導の方法を見直す。
その判断には、医療の専門知識だけでなく、労務管理や組織運営の視点も必要です。
医師の仕事を考えるとき、診療上の責任と組織を運営する責任は、同じものではありません。
ドイツの大学病院で研修医の業務を調べたレヒティエンら(Rechtien et al., 2022)は、インタビュー、自己評価調査、直接観察を組み合わせ、医師の日常業務には情報共有、計画、調整などの管理活動が多く含まれることを示しました。
ただし、研究対象は病院勤務の研修医であり、日本の小規模クリニックの院長ではありません。この研究から、院長がスタッフとの対立を避ける理由を直接説明することはできません。
それでも、医師の仕事を診療行為だけで捉えることの限界を考えるうえで、示唆的な知見です。
医学的な判断に熟達していることが、そのまま人事上の判断や職場の対立への対応に習熟していることを意味するわけではないからです。
しかも、小規模な診療所では、院長自身が診療の中心を担いながら、採用、経営、職員への対応まで引き受けていることがあります。
診療を終えてから問題に向き合おうとしても、時間が取れない。対応の必要性は理解していても、誰に相談し、どのように進めればよいかが定まっていない。
こうした条件が重なれば、問題への対応は後回しになりやすくなります。
ここで考えたいのは、院長個人の能力や意欲だけでなく、判断を支える仕組みが組織にあるかどうかです。
例えば、スタッフ間の問題を院長だけが把握している場合と、事実関係を整理し、必要な相談先や対応手順を確認できる場合とでは、判断の負担が異なります。
その仕組みは、大規模な管理部門である必要はありません。
相談する相手を決めておくこと、問題を記録して整理すること、判断の前に確認すべき事項を明らかにすることも、現実的な工夫です。
院長が最終的な責任を負うことと、問題の把握から対応までを一人で抱え込むことは、同じではありません。
責任が集中しているからこそ、その責任を果たすための支えが必要なのです。
3.問題に対応できる組織には、何があるのか
では、院長一人の判断に依存しすぎない診療所には、どのような条件が必要なのでしょうか。
この問いを考える手がかりとして、ミラーら(Miller et al., 2010)の研究があります。
ミラーらは、プライマリ・ケア診療所の発展を、単に新しい管理方法や業務手順を導入する問題としてではなく、組織内の関係性や学習を含む変化として捉えました。
その背景には、診療所を**複雑適応システム(Complex Adaptive System)**として理解する考え方があります。
診療所では、院長の判断だけでなく、スタッフの行動、患者への対応、日々の業務、外部環境などが互いに影響し合っています。
一つの問題に対応すると、別の仕事や関係にも影響が及ぶことがあります。だからこそ、決められた手順を一つ追加すれば、すべてが解決するとは限りません。
ミラーらが論じる重要な概念の一つが、**適応予備力(Adaptive Reserve)**です。
これは、診療所が変化や課題に向き合うための組織的な力を考える概念です。
そこには、日々の実践を振り返ること、経験から学ぶ文化、関係性やコミュニケーション、変化を促すリーダーシップなどが関わります。
ただし、この研究は、院長がスタッフに注意できない原因を適応予備力の不足と特定したものではありません。また、日本の小規模診療所における個別の人事問題への対処法を直接検証した研究でもありません。
その限界を踏まえたうえで、私は、この考え方をスタッフの問題への対応に引き寄せて考えたいと思います。
例えば、スタッフ間の問題が生じたとき、院長が本人を呼び出して注意するかどうかだけが選択肢ではありません。
まず、何が起きているのかを整理する。関係する人々の話を、それぞれの立場から確認する。業務上の役割や責任に曖昧な点がないかを調べる。
そして、個人の言動への対応が必要なのか、仕事の進め方や分担の見直しが必要なのかを区別する。
必要な判断をした後には、対応が実際に機能しているかを確認することも重要です。
これらはミラーらの研究で個別に効果が実証された対処手順ではなく、組織の学習と適応という視点から考えられる実践上の工夫です。
ここで大切なのは、話し合う機会を増やすことだけではありません。
問題を把握し、検討し、判断し、その結果を確かめる。
その一連の過程を、院長の気力や、その日の余裕だけに依存させないことです。
対話によって互いの認識を確かめることと、必要な判断を実行する仕組みを持つこと。その両方が必要なのだと思います。
4.関係を守ることと、責任を果たすこと
スタッフに問題を指摘することをためらうとき、院長は何を守ろうとしているのでしょうか。
本人との関係かもしれません。
職場の雰囲気かもしれません。
退職を防ぎ、診療を維持することかもしれません。
いずれも、経営者として軽視できない理由です。
しかし、ここで別の問いが生まれます。
その判断によって、誰との関係が守られ、誰が負担を引き受け続けるのでしょうか。
例えば、あるスタッフの仕事上の問題に対応しないことで、別のスタッフが繰り返し業務を補っているとします。
院長は、問題のある本人との対立を避けられるかもしれません。しかし、その間も負担を引き受けているスタッフは、自分の状況が十分に考慮されていないと感じる可能性があります。
何も言わないことは、中立であることと同じではありません。
対応を見送ることにも、組織への影響があります。
だからといって、強い言葉で注意することや、一方的に指示することが正しいわけでもありません。
事実関係が曖昧な段階で個人を責めれば、問題を深刻にするおそれがあります。必要な対応は、問題の性質や緊急性によって異なります。
まず状況を確かめることが必要な場合もあれば、業務上のルールを明確にすることが必要な場合もあります。深刻な問題では、院長が速やかに対応し、外部の専門家の助言を得ることも考えなければなりません。
重要なのは、対立が起きるかどうかだけを判断の基準にしないことです。
私は、ここにリーダーシップの難しさがあると考えています。
「関係を壊さないこと」と「関係に責任を持つこと」は、必ずしも同じではない。
これは、特定の研究が直接証明した結論ではなく、INNERSHIFTとして考えたい命題です。
関係を大切にするとは、誰からも反発されないことではありません。
相手の立場を理解しながらも、必要な問題から目をそらさないこと。そして、一人の人との関係だけでなく、そこで働く人々の関係全体に目を向けることではないでしょうか。
結び|院長一人の勇気に頼らないために
スタッフの問題に対応することは、院長にとって簡単ではありません。
診療を維持し、職員の生活を支え、組織の関係を保つ責任があるからこそ、判断をためらうことがあります。
必要なのは、院長にもっと勇気を持つよう求めることだけではありません。
問題を早い段階で把握できること。異なる立場から事実を確認できること。判断の責任を明確にし、必要な対応を実行し、その結果を振り返れること。
そうした関係性と仕組みを、日々の診療所運営のなかで育てることが重要だと考えます。
自分が対応をためらっている問題は何でしょうか。
その判断によって、誰との関係を守ろうとしているのでしょうか。
そして、その問題を院長一人で抱え込まずに向き合うには、何を変える必要があるのでしょうか。
参考文献
Rechtien, L., Gradel, M., Fischer, M. R., Graupe, T., & Dimitriadis, K. (2022). A mixed methods assessment of the management role of physicians. Advances in Medical Education and Practice, 13, 1003–1017. https://doi.org/10.2147/AMEP.S370245
Miller, W. L., Crabtree, B. F., Nutting, P. A., Stange, K. C., & Jaén, C. R. (2010). Primary care practice development: A relationship-centered approach. Annals of Family Medicine, 8(Supplement 1), S68–S79. https://doi.org/10.1370/afm.1089
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