社員が、自分たちの問いを持ち始めた。
ある次世代リーダー育成研修で、参加者たちは自分たちの会社について調べていました。
会社がどのような歴史を歩んできたのか。何を強みとしてきたのか。社員や役員は、会社のこれからをどう考えているのか。
異なる部門の社員が集まり、調査し、意見を交わしていくなかで、一つの問いが生まれてきました。
AIによって、自分たちの仕事はこれからどう変わるのだろうか。
それは、講師があらかじめ答えを用意した問いではありませんでした。参加者自身が、会社の過去と現在を調べる過程で形成した問いでした。
研修には、現経営者が参加する場面もありました。
私が見た範囲では、参加者たちは経営者が同席していても、発言や態度を大きく変えることなく、比較的率直に意見を述べていました。
もちろん、この観察だけで、組織の心理的安全性が高いと判断することはできません。
ただ、私には気になることがありました。
社員が自分たちで問いを持ち始めたとき、経営者はその問いをどう受け取るのでしょうか。
社員に考える機会を与えることと、社員が考え始めたことに向き合うことは、同じではないように思うのです。
経営者は、答えを急がずに何ができるのか。
経営者は、会社の方向を示し、重要な意思決定を行う立場にあります。
社員から問いを投げかけられれば、経験や知識をもとに答えを示すこともできるでしょう。
その答えが必要な場面も、当然あります。
しかし、社員が自分たちで形成した問いに対して、経営者がすぐに結論を示したら、何が起こるでしょうか。
社員は、その結論を理解しようとするかもしれません。経営者の考えを踏まえて、次の検討に進むこともあるでしょう。
一方で、まだ十分に検討されていなかった論点が、そのまま残る可能性もあります。
経営者の答えが、社員自身の問いを考える作業の終点になってしまうこともあるのではないでしょうか。
Morrison(2014)は、従業員が意見や懸念を表明する行動と、意見を表明しない沈黙について、先行研究を整理しています。
そこでは、従業員の発言は本人の意欲だけで決まるものではなく、上司の態度や組織の環境など、複数の要因との関係から捉えられています。
また、NembhardとEdmondson(2006)は、医療チームを対象とした研究で、リーダーがメンバーの貢献を求め、尊重する行動と、心理的安全性や改善活動への参加との関係を検討しています。
医療現場と一般企業の経営では、業務の性質も意思決定の条件も異なります。この研究から、経営者が社員の問いを受け止めれば、必ず主体的な行動が生まれると結論づけることはできません。
それでも、社員が意見を述べたとき、リーダーがどう応答するかという問題を考える手がかりになります。
経営者に必要なのは、常に答えを控えることではありません。
むしろ、今ここで答えを示すべきなのか、それとも社員ともう少し考えるべきなのかを見極めることではないでしょうか。
意見を尊重することは、提案を採用することではない。
社員の意見を大切にする。
その言葉には、反対する人は少ないでしょう。
しかし、社員から具体的な提案が出てきたとき、経営者は難しい判断に直面します。
社員が十分に調べ、真剣に考えた提案であっても、採用できるとは限りません。
会社には、資金、人材、時間、取引先との関係など、さまざまな制約があります。
ある部門にとって合理的な提案が、会社全体にとって最善とは限らないこともあります。
では、提案を採用しないことは、社員の考えを尊重していないことになるのでしょうか。
私は、そうは思いません。
意見を尊重することと、その意見に従うことは違うからです。
重要なのは、提案を採用するかどうかだけではありません。
社員が何を問題と捉え、どのような事実を調べ、なぜその提案に至ったのか。
経営者がそこに関心を向けることには、意味があると思います。
そのうえで、経営者は採用するものと採用しないものを判断する。
採用できないのであれば、可能な範囲で、その理由や判断の前提を説明する。
社員の考えを受け止めることは、経営者が判断を放棄することではありません。
むしろ、社員の問いに向き合ったうえで、自らの判断を引き受けることなのだと思います。
社員の問いを、経営の現実につなぐ。
社員から生まれた問いは、そのままでは経営課題にならないことがあります。
たとえば、AIによって自分たちの仕事がどう変わるのかという問い。
それだけでも、考える価値のある問いです。
しかし、経営の立場から考えるなら、さらに検討しなければならないことがあります。
どの業務が変わるのか。顧客に提供する価値はどう変化するのか。新しい技術を使うために、どのような人材や投資が必要になるのか。
そして、その変化に会社としてどこまで対応できるのか。
社員が生み出した問いと、経営者が向き合う現実には、異なる視点があります。
どちらか一方だけでは、十分に考えられないこともあるでしょう。
DuttonとAshford(1993)は、組織の構成員が重要だと考える課題を、経営陣の検討事項として提示する過程を、Issue Sellingという理論的枠組みから論じています。
この研究は、現場で認識された問題が、どのように経営上の関心と結びつくのかを考える手がかりになります。
ただし、これは理論研究であり、社員の問題提起が経営判断に採用されることを実証したものではありません。
ここで経営者に求められるのは、社員の問いを単に評価することだけではないと思います。
その問いを、会社の経営課題や制約条件と照らし合わせること。
必要であれば、社員がまだ知らない経営上の前提を伝えること。
そして、問いをどのように検討していくのかを、ともに考えること。
社員の問いを経営の現実につなぐとは、社員に経営者と同じ答えを出させることではありません。
異なる立場から見えている現実を持ち寄り、何を判断すべきなのかを明らかにしていくことではないでしょうか。
問い続けられる関係を、誰が支えるのか。
社員が問いを持ち始めることは、組織にとって一つの変化かもしれません。
しかし、本当に難しいのは、その後だと思います。
研修では、日常業務から少し離れて、会社の未来を考える時間を持つことができます。
けれども、職場に戻れば、日々の仕事があります。
目の前の業務を進め、顧客に対応し、求められる成果を出さなければなりません。
さらに、職場には既存の意思決定手続きがあり、上司との関係もあります。
研修で自由に考えられたことが、そのまま日常の組織活動でも検討できるとは限りません。
だからこそ、研修で生まれた問いを、その後の組織活動のなかでどう扱うのかという問題が残ります。
もちろん、今回の研修で生まれた問いが、その後どのように扱われたのかについて、私は確認していません。
ここからは、研修の観察を出発点とした私自身の考察です。
社員が問いを経営者に届けたとき、経営者にはいくつかの選択があります。
その問いを受け止めること。
経営上の課題として検討するかどうかを判断すること。
そして、検討や判断の結果を、可能な範囲で社員に伝えること。
すべての問いを経営課題として取り上げる必要はありません。
検討した結果、採用しないという判断もあるでしょう。
それでも、社員にとっては、自分たちの問いがどう受け止められ、どのような判断につながったのかを知ることに意味があると思います。
意見を聞いたあと、何も伝えない。
提案を求めながら、その後の判断を説明しない。
そのような応答が続けば、社員は次に何を考えればよいのかわからなくなるかもしれません。
反対に、提案が採用されなくても、判断の理由や検討の経緯が伝えられれば、社員はそこから新しい問いを考えることができるかもしれません。
もちろん、経営者がすべての判断過程を公開できるわけではありません。
経営上の機密や、判断の時期によっては、説明できないこともあるでしょう。
それでも、何を受け止め、何を検討し、どこで判断したのかを、伝えられる範囲で伝えることはできるはずです。
社員が問いを持ち始めたとき、経営者に求められるのは、すべての問いに答えることでも、すべての提案を採用することでもありません。
その問いに向き合い、何を考え、何を判断したのかを、伝えられる範囲で伝えること。
社員が次の問いを持てるかどうかは、経営者がその問いにどう応答するかとも関わっているのではないでしょうか。
参考文献
Morrison, E. W. (2014). Employee voice and silence. Annual Review of Organizational Psychology and Organizational Behavior, 1, 173–197. https://doi.org/10.1146/annurev-orgpsych-031413-091328
Nembhard, I. M., & Edmondson, A. C. (2006). Making it safe: The effects of leader inclusiveness and professional status on psychological safety and improvement efforts in health care teams. Journal of Organizational Behavior, 27(7), 941–966. https://doi.org/10.1002/job.413
Dutton, J. E., & Ashford, S. J. (1993). Selling issues to top management. Academy of Management Review, 18(3), 397–428. https://doi.org/10.2307/258903
