小さなクリニックでは、院長とスタッフが毎日のように顔を合わせる。診療の合間に言葉を交わし、患者のことも、互いの仕事の進め方もよく知っている。
それほど近い関係にありながら、仕事について本当に考えていることを、互いに伝えられているだろうか。
「このやり方は変えた方がよいのではないか」
「患者さんへの説明について、少し気になることがある」
そう感じても、スタッフが言葉を飲み込むことはあるかもしれない。一方、院長も、経営上の事情や診療全体への責任を、スタッフに十分説明できていない場合がある。
そこにあるのは、単なるコミュニケーション不足なのだろうか。
人と人との距離が近いことと、互いの考えを自由に伝え合えることは、何が違うのか。
この問いから、小さな組織における対話とリーダーシップを考えてみたい。
1.毎日顔を合わせていても、話せるとは限らない
少人数の職場には、大きな組織とは異なる特徴がある。
一人ひとりの仕事が見えやすく、ちょっとした変化にも気づきやすい。必要なときには、正式な会議を開かなくても相談できる。
こうした近さは、小さな組織の強みになり得る。
しかし、その近さが、意見を伝えることの難しさにつながる場合もある。
例えば、院長が長年続けてきた診療の進め方について、スタッフが疑問を持ったとする。
それを伝えることは、単に業務改善を提案するだけではない。日頃から一緒に働く院長の判断に、異なる見方を示すことでもある。
明日も、その翌日も、同じ職場で顔を合わせる。
だからこそ、相手との関係を考え、発言をためらう可能性がある。
もちろん、院長の側にも事情がある。
診療の質や患者の安全、職員の配置、経営の継続性。院長が考えなければならないことは、個々のスタッフから見えている範囲より広い場合がある。
スタッフの提案を受け入れられないことがあっても、それが必ずしも意見を軽視していることを意味するわけではない。
問題は、異なる立場から見えていることを、互いに伝え、検討できる関係になっているかという点にある。
2.「仲がよい職場」と「意見を言える職場」は同じか
職場の雰囲気がよいことは、大切である。
院長とスタッフが気軽に雑談できる。忙しいときには助け合い、互いを気遣う。
しかし、そうした親しさがあることと、仕事上の異論を表明できることは、必ずしも同じではない。
心理的安全性を研究したエイミー・エドモンドソン(Amy Edmondson, 1999)は、チームのなかで対人関係上のリスクを取ることが安全だと共有されている信念に注目した。
ここでいうリスクには、質問すること、間違いを認めること、異なる意見を示すことなどが含まれる。
エドモンドソンの研究は、一般組織のチームを対象として、心理的安全性と学習行動の関係を検討したものである。日本の小規模クリニックで同じ関係が成立することを直接示した研究ではない。
それでも、この視点は一つの問いを与えてくれる。
その職場では、相手と違う考えを示しても、関係が損なわれないと感じられるだろうか。
例えば、院長が「何でも言ってほしい」と伝えていたとしても、スタッフが以前の提案を否定された経験を強く覚えていれば、次の発言をためらうかもしれない。
反対に、提案が採用されなくても、院長が理由を説明し、スタッフの考えを真剣に検討していれば、意見を伝える意味は失われないだろう。
大切なのは、すべての意見が受け入れられることではない。
意見が違っても、その違いを仕事の問題として扱えること。
親しさを保つために異論を避ける関係と、異論があっても互いを尊重できる関係は、区別して考える必要がある。
3.院長が決めることと、スタッフが考えること
クリニックでは、院長が最終的な判断責任を担う場面が多い。
診療方針、患者の安全、職員の配置、設備投資、経営上の判断など、すべてを話し合いで決められるわけではない。
専門資格や法的責任によって、判断できる人が限定される事項もある。
では、院長が決める以上、スタッフの意見はどこまで必要なのだろうか。
ここで考えたいのは、判断する権限と、判断に必要な情報を持っていることは、必ずしも一致しないということである。
看護師は患者の反応や診療の流れについて、医療事務職員は受付で生じている困りごとや患者からの問い合わせについて、院長とは異なる経験を持っている。
院長が最終判断を担うとしても、その判断に必要な情報が院長の手元にすべて集まっているとは限らない。
例えば、予約方法の変更を検討する場面を考えてみよう。
院長は診療効率や経営への影響を重視するかもしれない。受付スタッフは患者の待ち時間や問い合わせの増加を懸念するかもしれない。
どちらか一方が正しいという話ではない。
異なる立場から見えている問題を持ち寄ることで、判断の前提をより具体的に検討できる。
ただし、意見を聞いたからといって、院長がその希望をすべて受け入れる必要はない。
重要なのは、意見を聞くことと、最終的に決めることを混同しないことである。
スタッフには自分の考えを示す機会があり、院長にはそれを検討したうえで判断する責任がある。
この二つは対立するものではない。
むしろ、異なる考えが示されることによって、責任ある判断の質を問い直すことができるのではないだろうか。
4.本音を話せないのは、誰の問題なのか
スタッフが意見を言わないとき、「もっと積極的になってほしい」と院長が感じることはあるだろう。
一方、スタッフは「言っても変わらない」「忙しい院長に余計な負担をかけたくない」と考えているかもしれない。
こうした状況を、どちらか一方の性格の問題として捉えると、関係そのものが見えにくくなる。
組織における従業員の発言(Employee Voice)や沈黙(Employee Silence)を考える際にも、単に発言する能力や意欲だけではなく、発言した後に何が起こると予想されるかが重要な論点になる。
ただし、一般組織で得られた研究知見を、日本の小規模クリニックにそのまま当てはめることはできない。医療現場の専門性や組織構造を踏まえながら、慎重に考える必要がある。
ここからは、組織の関係を考えるための実践的な問いである。
例えば、院長はスタッフに意見を求めた後、その意見をどう扱っているだろうか。
提案を採用しない場合、理由を伝えているだろうか。
スタッフの側も、困っていることを伝えるだけでなく、何が問題で、どのような変更が必要だと考えるのかを言葉にできているだろうか。
対話は、院長だけが努力すれば成立するものではない。
しかし、院長とスタッフの責任が同じということでもない。
判断権限を持つ院長の応答は、スタッフが次に発言するかどうかに影響し得る。一方、スタッフにも、日々の経験から気づいたことを整理し、仕事の改善に結びつけていく役割がある。
その関係を変えるためには、まず日常の小さな場面から始められる。
院長は「何か意見はある?」と尋ねるだけでなく、「今の進め方で困っていることは何か」「患者さんの反応で気になったことはあるか」と、具体的に問いかける。
スタッフは「やりにくい」という感想だけで終わらせず、どの場面で何が起きているのかを伝える。
そして、すぐに結論が出ない場合も、何を確認し、いつ判断するのかを共有する。
こうした行動は、対話が必ず成功する方法ではない。
それでも、意見を言うことが、単なる不満の表明ではなく、仕事を一緒に考える行為になるための一歩にはなる。
5.小さなクリニックから、組織の関係を考える
小規模クリニックの人間関係を考えていると、これは医療機関だけの問題ではないことに気づく。
少人数の企業、専門職の事務所、創業者が率いる組織。
互いをよく知り、日常的に顔を合わせる職場ほど、関係を大切にすることと、異なる意見を伝えることの間に緊張が生まれる可能性がある。
組織が小さいことは、対話にとって有利な条件にもなれば、難しさにもなり得る。
だからこそ、組織の規模や人間関係の親しさだけで、対話の質を判断することはできない。
INNERSHIFTでは、リーダーシップを、リーダー個人の能力だけでなく、人と人との関係のなかで捉えてきた。
医療組織もまた、その視点から考えていきたい領域の一つである。
院長には院長の責任があり、スタッフにはスタッフの専門性と経験がある。
それぞれの立場が違うからこそ、同じ出来事を異なる角度から見ることができる。
その違いを、対立の原因として避けるのではなく、よりよい判断につなげるために扱えるだろうか。
本音で話せる関係とは、何でも遠慮なく言える関係でも、すべての希望が通る関係でもない。
異なる考えを伝え、それを互いに検討し、必要な判断を引き受けられる関係である。
院長とスタッフの距離が近いことよりも、その近さのなかで、どれだけ違いを扱えるか。
小さなクリニックの人間関係には、組織における対話の本質を考えるための、大切な問いがある。
参考文献
Edmondson, A. (1999). Psychological safety and learning behavior in work teams. Administrative Science Quarterly, 44(2), 350–383. https://doi.org/10.2307/2666999
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